ところで、今回の短篇集ですが、ラジオドラマや劇団でやって面白く、楽しく、どこまでも笑えるテーマで書いています。今まで、あらゆるジャンルの著作を、二百冊以上も書きました。ビジネス書や自己啓発、芸術、文化、宗教、福祉の本。そこで、人間や社会や心や意識について、さんざん暗闘部分や本質を追求して来たのです。
そこで、小説を書く段になって、大きな疑団を持ちました。はたして小説は、宗教、哲学、ノンフィクション以上に、人間や社会の本質を、正しく深く描けるのだろうか。描くことで、なんらかの救いがあり、励まされるのだろうか。描けるかも知れないが、それは、易経や論語、バイブル、仏典、コーランに勝てるものなのか。あったら、学びたいので、是非教えて頂きたい。おそらく、ないでしょう。作家は、そこまで宗教、哲学、精神世界を極め、経済、政治などのノンフィクションを、体験して学び、自分なりに極めたのだろうか。極めてないからこそ、小説家が、人間や社会の本質を描こうとするのではないか。そう思えてなりません。理解してるつもりでも、それは、本を読んで学んだだけで、実体験で、体得した訳ではないでしょう。
奇跡のような、波瀾万丈の人生を送ったマ ーク・トウェイン。彼が書いた「トム・ソーヤーの冒険」は、彼の人生そのものの魅力があります。飛行機乗りで、最後は志願して、フランス国家のために戦死したサンテグジュペリ。彼の最後の作品は、「星の王子さま」ですが、魂に響く魅力があり、今なお愛され、世界で五千万部も売れています。
これらの作品は、決して小説家が、人間や社会の本質を描こうとしたものではなく、多くの体験を積んだ魂から、自然に湧き出たヒラメキ、イメージ、物語でありましょう。そして、その文体や言葉の調べの中に、作者の魂から来る、気韻生動があり、「いのち」の余韻や味わいがあるのです。これが、小説の直接的な芸術性だと思います。そして、古典の名作には、そんな「いのち」が宿っているのです。
しかし、十代、二十代、三十代から、何の社会経験もなく、人間社会の苦吟の中から、人間の本質を哲学し、宗教し、精神世界を体験的に極めてない人間が、なぜ、社会や人間の本質を追求し、純文学やエンターテイメント文学で、それを表現しようとするのか。するのは自由だけれど、本当に魂に響き、万人に共感を呼び、長く人々に愛される作品は、皆無に等しいと言えるでしょう。若くして、そういう経験から自分を練った石川啄木や宮沢賢治は、詩や童話しか書いていません。
それなのに、若い頃からの小説家は、宗教家よりも哲学者よりも、経営者よりも政治家よりも、また、歴史を作った実在の人物や芸術家よりも、それを小説に書き、賞をもらっただけで、人間や社会の本質が解ったような顔をしてます。タバコを吹かして、肩で風を切り、渋谷の街を歩いています。釈迦やイエスや孔子や老子、マホメットより、人間が解ったような顔で、世田谷も歩きます。どのような顔で、どこを歩こうが、本人の自由です。勝手です。
しかし、その程度の浅くて狭い、人間と社会の咀嚼力の作家が、シリアスな小説や歴史小説を書き、賞をもらったからと言って、SF作家やファンタジー、ナンセンスギャグやパロディー作家、またコミック、アニメ作家を、なぜ低く見るのか。自分達の方こそ、五大聖人に見下され、あの世から、歴史を作った本人に見下され、哲学、芸術、古典文学の名著を残した大家から、霊界で見下されてるのです。だから、もっと寛容と広い心をもって、あらゆるジャンルの文学、芸術に対して、偏見なく、平等に、謙虚であって欲しいものです。
だから、私は、小説で人間と社会の本質を表し、追求するシリアスな文学、歴史小説には、当分馴染めません。読んでも、書く気にはなりません。 なぜなら、いつもシリアスに人間と社会を見つめ、書くよりも、まず実行してるからです。人々を救い励まし、より良き社会にしようと、多くの公益活動や芸術活動を実行してるのです。
ところで、読む歴史小説ですが、吉川英治は、文句なく楽しめて好きですが、司馬遼太郎は、常にその歴史観に疑問を感じます。人間理解も、歪んで見えます。彼の圧倒的な筆力に、人々は歪んだ歴史観を、真実だと思わせられてる気がします。それだけ、作家としては優秀なのでしょう。しかし、歴史家や哲学者としては、疑問が残ります。その点、松本清張の方が上でしょう。私は、中国の浙江大学で、「入宋僧」の研究でも博士号を取りましたが、歴史の学術研究から歴史小説への転換は、心が重くて、まだまだ時間がかかります。
だから、小説を考えた時、宗教にも哲学にも、政治にも経済にも、歴史学や心理学、科学にも真似できないもの。つまり、文学の中でも、小説にしかできないものは何かを考えます。それは、古来からの、歴史の中にヒントがありました。世界や日本の古来からの文学は、「うた」と「ものがたり」に集約できます。日本では、「うた」は短歌ですが、連歌や俳句、詩文や作詞も、「うた」に属します。
そして、「ものがたり」があります。「ものがたり」には、多くの伝承や民話や神話があり、日本には「伊勢物語」に始まる、人間ドラマの「源氏物語」、戦記物、伝奇物など、様々な「ものがたり」があります。狂言、能、歌舞伎、落語、講談も、「ものがたり」の広がりです。コミックもアニメも小説も、みんな「ものがたり」の広がりです。そこに、芸術性の優劣はなく、長く人々に愛され、長きに渡って市場価値あるものが、高い芸術価値があると信じます。そして、「うた」の本質は詩心であり、「ものがたり」の本質は、面白さだと思います。だから、社会や人間の本質とは関係ない、「うた」の詩心と、「ものがたり」の面白さがある文学が、宗教、哲学、政治、経済、科学、学術にない、文学の本質だと考えるのです。
「うた」の詩心は、今まで短歌や俳句、作詞や詩文で、たくさん表現して来ました。今度は、「ものがたり」の面白さの追求です。今までに、アニメやコミックの原作は、いくつか作りました。今回の短篇集は、さらにラジオドラマ、演劇の台本になる原作であり、落語や狂言、ギャグ漫画やアニメの台本にもなる原作です。大人の童話の絵本にもなる予定です。シェークスピアよりダジャレ、下ネタ、ギャグが豊富で、落語のようにオチがあります。オチ方にも色々あり、オチそうでオチないオチもあり、オチつかないオチもあります。文章で楽しむ、パタリロの漫画や鳥山明のコミック、吉本興業のギャグとも言えます。また、ギャグや言葉遊びの密度を高めた、野田秀樹やクドカンの脚本とも言えます。とにかく、既成概念にとらわれず、既成の文学観にとらわれない、自由な発想に基づく、「ものがたり」の面白さをクリエイトするつもりです。
そして、私がめざす究極の理想は、「うた」の詩心と、「ものがたり」の面白さが、見事に融合した作品です。それが、至上の文学と考える次第です。たとえば、シェークスピアの作品、源氏物語という作品、ゲーテの作品、夏目漱石や三島由紀夫の作品が、そうだと言えます。つまり、歌人や漢詩人やソネットなどの詩人であり、小説家でもあった人物の作品です。その次が、社会や人間の本質を、様々に実行して、体験の中から悟った人物の小説です。日本では、無学歴に近い形で、色々な職業や職場を経験した、長谷川伸や吉川英治、浅田次郎、松本清張などがあります。シェークスピアは、実に、この要素をも合わせ持ったのです。
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