私が、十六年間ホストパーソナリティーを務めるラジオ番組、「さわやか THIS WAY 」で発表した短篇小説が、この度本になりました。幸い、大きな反響と高い評価を頂き、本にして欲しいという声も、たくさん頂きました。実は、これらの短篇は、私が主宰する「明るすぎる劇団・東州」で、演劇としても上演されています。
小説と云うと、「疎外感」「寂寥感」「都会の孤独感」など、人間のネガティブな部分を文学テーマにする場合が多く、それが芸術だと評価される傾向があります。そうすると、伝統芸能における狂言や落語は、芸術ではないのだろうか。ならば、狂言や落語の大家が、芸術院会員になり、人間国宝になったり、文化庁芸術選奨文部科学大臣賞など、多くの芸術賞を受賞するのは、なぜなのか。伝統芸能だから、芸術なのか。
狂言や落語は、ダジャレ、滑稽、ナンセンス、風刺など、あらゆる笑いを追求したもので、そこにおのずから、庶民の生活感が滲み出るものです。それも、立派な人間探求であり、人間讃歌の芸術だと思うのです。こういう、人間のポジティブな面を追求する芸術が、いつも、シリアスで、人間の暗闘部分を描く芸術より、低く見られることを、心から嘆く次第です。
シェークスピアの悲劇の代表作、「リア王」、「ハムレット」、「オセロ」、「ロミオとジュリエット」は、全て下ネタとダジャレが随所にあり、文学表現に感心し、笑っている内に悲劇の幕切れがあります。悲劇と言っても、悪の陰謀は全て暴かれ、悪人は全て裁かれます。そのついでに、善人も死ぬのです。だから、読後感が、悲劇でもどこか明るく、心が解放されます。
また、シェークスピアの喜劇は、それこそダジャレ、下ネタ、皮肉、風刺の連続で、その中に、あまりにも素晴らしい文学表現が、綺羅星のごとく出て来ます。これらが、最高の芸術と讃えられ、四百年経っても、今なお世界一売れてる文芸作品なのです。
また、モーツァルトの二十二個のオペラは、すべて男女のカップルが、ハッピーエンドになっています。領主の「初夜権」をからかう「フィガロの結婚」。婚約者の貞操を試す「コジ・ファン・トゥッテ」。最低な内容を、最高の音楽でオペラにするモーツァルト。彼の頭の中や、心の中を連想するだけで、笑いが止まりません。
尊敬する、モーツァルトのオペラだからと思って、「コジ・ファン・トゥッテ」を見たベートーベン。観た後に、「最低だ!」と吐き捨てるように言ったそうです。そのベートーベンが作った、唯一のオペラが「フィデリオ」です。まじめ過ぎて、オペラとしては、ちっとも面白くないものです。
もし、現代にシェークスピアやモーツァルトがタイムスリップして、日本語を話し、文芸作品やオペラ作品を書いても、あまり評価されないでしょう。ダジャレが多すぎる。下ネタが多すぎる。台詞が長すぎる。言葉遊びが過ぎて、差別用語、固有名詞の濫用、パロディー化、ギャグ化が多すぎると……。
しかし、演劇界は、その流れの宮藤官九郎や三谷幸喜の、明るく楽しい戯曲や映画、テレビ番組が大人気で、多くの芸術賞を受賞しています。また、一世を風靡した、言葉遊びの野田秀樹やキャラメルボックスの 成井豊など、大人気で多くの観客が集い、野田は芸術賞を総嘗めにしています。
しかし、純文学やエンターテイメントの小説は、彼らを一段低く見る傾向があります。はたして、芥川賞の純文学、直木賞のエンターテイメント文学は、シェークスピアやモーツァルトを、自分達より低く見ているのだろうか。四百年前や二百五十年前の外国人だから、例外的に偉いと認めるのだろうか。何を、文学や芸術の価値基準に置いているのだろうか。
この本と同じ頃に、私の博士論文を本にした、「美術と市場」という本を出版しました。そこで、何を芸術の価値基準に置くかの命題に、正面から取り組みました。結論から言えば、五十年、百年単位で物を見れば、 ほぼ正確に、それは市場価値に反映されるというものです。異論もあるでしょうが、一つの物の見方です。
文学や演芸も、その観点からすれば、五十年、百年単位で世の中に残り、市場価値があるものが、やはり芸術的価値が高いと言えます。源氏物語や三島の作品、夏目漱石の作品、シェークスピア、ゲーテ、 サンテグジュペリの作品が、今なお読まれ、本が売れているのは、それだけ、芸術的価値が高いからだとも言えます。三島や野田秀樹らの言う、「古典主義」も、この観点からすれば、芸術の本質を言ってるとも言えます。また、能や狂言、歌舞伎や落語、オペラや京劇の名作が、今なお上演され、人々が切符を買って見に行くのは、それだけ、芸術的価値が高いからだとも言えます。ジャンルは関係ないのです。
これは、美術品でも同じです。「芸術のための芸術」という、唯美主義的な芸術観は、十九世紀のフランスから始まったものですが、純文学の芥川賞系、エンターテイメントの直木賞系も、この流れを引くものでしょう。
しかし、それらの価値基準も、五十年、百年経つと変化するものです。芸術的価値というものは、宇宙空間に絶対的尺度があるわけではなく、もし、天の理(り)としてあったとしても、それは、人々の深層意識の中にあるはずです。だから、五十年、百年経って、人々の形成する社会で長く愛され、市場価値があり続けるものが、本当の芸術的価値があると判断しても、間違いだとは言い切れません。そうなると、ジャンルによって、文学としての芸術的価値を高く見たり、低く見たりするのは、納得しかねる事なのです。
文化文政時代に隆盛した、下品な春画の浮世絵が、印象派の画家に強烈な影響を与え、ゴッホ、セザンヌ、モネなどを生む、大きな原動力になりました。今日、世界の絵画史の中で、北斎、広重などを、通常の画家より低く見る人はいないでしょう。世界に誇る、我が国の天才画家だと評価するはずです。油絵や中国の文人画ではない、版画や浮世絵だからと言って、ジャンルの違いで北斎や広重を、画家として低く見る人がいるのでしょうか。
しかし、世界的にほとんど知られない油絵画家が、浮世絵、版画家だからと言って、北斎や広重を低く見るようなことが、日本にはあるのです。つまり、世界的には誰も知らない芥川賞、直木賞作家が、世界の映像、アニメ界に影響を与える宮崎駿、「攻殻(こうかく)機動隊」の 押井守、「AKIRA」の大友克洋らを、どう評価するのか。また、コミックからアニメになって世界を席巻し、コミックは世界で三億部売れた「ドラゴンボール」の鳥山明。同じく世界を席巻した「ポケットモンスター」の 田尻智らを、どう評価するのか。また日本で、二十九年以上の長寿人気コミック、全ギャグマンガ「パタリロ!」の 魔夜峰央(まやみねお)、同じく「 じゃりン子チエ 」の はるき悦巳 らを、どう評価するのだろうか。井上ひさしさんは、「 じゃりン子チエ 」を絶賛したが、総じてコミック、アニメ界の大御所を、芸術的に低く見るものです。
今や世界に冠たる日本のコミック、アニメ業界は、江戸末期に庶民から現われた、浮世絵と同じです。その当時の、文人画家や南画の絵師が、浮世絵画家を見下していたのと同じです。その後、百年経って世界は、どちらをより高い芸術として評価したかです。だから、五十年、百年経ったら、アニメ作家やコミック作家が、ノーベル文学賞を受賞する可能性も、あながち否定できません。
だから、私の結論はこれです。芥川賞、直木賞をはじめとする文学賞は、それなりの立場があり、視点があっていいし、私も好きな作家がたくさんいます。しかし、だからと言って、コミックやアニメの有名作家の芸術性を、低く見るのはおかしい。また、小松左京、筒井康隆、星新一などのSF作家、ファンタジー作家、ホラー小説、ギャグ小説、パロディー小説、ケータイ小説を、一段低く見るのは、芸術に対する独善や偏見だと思うのです。
映像、視覚、通信文化が発達し、世界的にますます活字離れして行く現代。五十年、百年経ったら、何が生き残り、何が淘汰されて行くのか。そして、世界的に何が主流となって、芸術的価値を評価されるのか。本当に未知数です。だから、作家は、他のジャンルや世の移り変わりに対し、もっと謙虚で、やさしい目を持つべきだと思います。
ところで、今回の短篇集ですが、ラジオドラマや劇団でやって面白く、楽しく、どこまでも笑えるテーマで書いています。今まで、あらゆるジャンルの著作を、二百冊以上も書きました。ビジネス書や自己啓発、芸術、文化、宗教、福祉の本。そこで、人間や社会や心や意識について、さんざん暗闘部分や本質を追求して来たのです。
そこで、小説を書く段になって、大きな疑団を持ちました。はたして小説は、宗教、哲学、ノンフィクション以上に、人間や社会の本質を、正しく深く描けるのだろうか。描くことで、なんらかの救いがあり、励まされるのだろうか。描けるかも知れないが、それは、易経や論語、バイブル、仏典、コーランに勝てるものなのか。あったら、学びたいので、是非教えて頂きたい。おそらく、ないでしょう。作家は、そこまで宗教、哲学、精神世界を極め、経済、政治などのノンフィクションを、体験して学び、自分なりに極めたのだろうか。極めてないからこそ、小説家が、人間や社会の本質を描こうとするのではないか。そう思えてなりません。理解してるつもりでも、それは、本を読んで学んだだけで、実体験で、体得した訳ではないでしょう。
奇跡のような、波瀾万丈の人生を送ったマ ーク・トウェイン。彼が書いた「 トム・ソーヤーの冒険」は、彼の人生そのものの魅力があります。飛行機乗りで、最後は志願して、フランス国家のために戦死した サンテグジュペリ。彼の最後の作品は、「星の王子さま」ですが、魂に響く魅力があり、今なお愛され、世界で五千万部も売れています。
これらの作品は、決して小説家が、人間や社会の本質を描こうとしたものではなく、多くの体験を積んだ魂から、自然に湧き出たヒラメキ、イメージ、物語でありましょう。そして、その文体や言葉の調べの中に、作者の魂から来る、気韻生動があり、「いのち」の余韻や味わいがあるのです。これが、小説の直接的な芸術性だと思います。そして、古典の名作には、そんな「いのち」が宿っているのです。
しかし、十代、二十代、三十代から、何の社会経験もなく、人間社会の苦吟の中から、人間の本質を哲学し、宗教し、精神世界を体験的に極めてない人間が、なぜ、社会や人間の本質を追求し、純文学やエンターテイメント文学で、それを表現しようとするのか。するのは自由だけれど、本当に魂に響き、万人に共感を呼び、長く人々に愛される作品は、皆無に等しいと言えるでしょう。若くして、そういう経験から自分を練った石川啄木や宮沢賢治は、詩や童話しか書いていません。
それなのに、若い頃からの小説家は、宗教家よりも哲学者よりも、経営者よりも政治家よりも、また、歴史を作った実在の人物や芸術家よりも、それを小説に書き、賞をもらっただけで、人間や社会の本質が解ったような顔をしてます。タバコを吹かして、肩で風を切り、渋谷の街を歩いています。釈迦やイエスや孔子や老子、マホメットより、人間が解ったような顔で、世田谷も歩きます。どのような顔で、どこを歩こうが、本人の自由です。勝手です。
しかし、その程度の浅くて狭い、人間と社会の咀嚼力の作家が、シリアスな小説や歴史小説を書き、賞をもらったからと言って、SF作家やファンタジー、ナンセンスギャグやパロディー作家、またコミック、アニメ作家を、なぜ低く見るのか。自分達の方こそ、五大聖人に見下され、あの世から、歴史を作った本人に見下され、哲学、芸術、古典文学の名著を残した大家から、霊界で見下されてるのです。だから、もっと寛容と広い心をもって、あらゆるジャンルの文学、芸術に対して、偏見なく、平等に、謙虚であって欲しいものです。
だから、私は、小説で人間と社会の本質を表し、追求するシリアスな文学、歴史小説には、当分馴染めません。読んでも、書く気にはなりません。 なぜなら、いつもシリアスに人間と社会を見つめ、書くよりも、まず実行してるからです。人々を救い励まし、より良き社会にしようと、多くの公益活動や芸術活動を実行してるのです。
ところで、読む歴史小説ですが、吉川英治は、文句なく楽しめて好きですが、司馬遼太郎は、常にその歴史観に疑問を感じます。人間理解も、歪んで見えます。彼の圧倒的な筆力に、人々は歪んだ歴史観を、真実だと思わせられてる気がします。それだけ、作家としては優秀なのでしょう。しかし、歴史家や哲学者としては、疑問が残ります。その点、松本清張の方が上でしょう。私は、中国の浙江大学で、「入宋僧」の研究でも博士号を取りましたが、歴史の学術研究から歴史小説への転換は、心が重くて、まだまだ時間がかかります。
だから、小説を考えた時、宗教にも哲学にも、政治にも経済にも、歴史学や心理学、科学にも真似できないもの。つまり、文学の中でも、小説にしかできないものは何かを考えます。それは、古来からの、歴史の中にヒントがありました。世界や日本の古来からの文学は、「うた」と「ものがたり」に集約できます。日本では、「うた」は短歌ですが、連歌や俳句、詩文や作詞も、「うた」に属します。
そして、「ものがたり」があります。「ものがたり」には、多くの伝承や民話や神話があり、日本には「伊勢物語」に始まる、人間ドラマの「源氏物語」、戦記物、伝奇物など、様々な「ものがたり」があります。狂言、能、歌舞伎、落語、講談も、「ものがたり」の広がりです。コミックもアニメも小説も、みんな「ものがたり」の広がりです。そこに、芸術性の優劣はなく、長く人々に愛され、長きに渡って市場価値あるものが、高い芸術価値があると信じます。そして、「うた」の本質は詩心であり、「ものがたり」の本質は、面白さだと思います。だから、社会や人間の本質とは関係ない、「うた」の詩心と、「ものがたり」の面白さがある文学が、宗教、哲学、政治、経済、科学、学術にない、文学の本質だと考えるのです。
「うた」の詩心は、今まで短歌や俳句、作詞や詩文で、たくさん表現して来ました。今度は、「ものがたり」の面白さの追求です。今までに、アニメやコミックの原作は、いくつか作りました。今回の短篇集は、さらにラジオドラマ、演劇の台本になる原作であり、落語や狂言、ギャグ漫画やアニメの台本にもなる原作です。大人の童話の絵本にもなる予定です。シェークスピアよりダジャレ、下ネタ、ギャグが豊富で、落語のようにオチがあります。オチ方にも色々あり、オチそうでオチないオチもあり、オチつかないオチもあります。文章で楽しむ、パタリロの漫画や鳥山明のコミック、吉本興業のギャグとも言えます。また、ギャグや言葉遊びの密度を高めた、野田秀樹やクドカンの脚本とも言えます。とにかく、既成概念にとらわれず、既成の文学観にとらわれない、自由な発想に基づく、「ものがたり」の面白さをクリエイトするつもりです。
そして、私がめざす究極の理想は、「うた」の詩心と、「ものがたり」の面白さが、見事に融合した作品です。それが、至上の文学と考える次第です。たとえば、シェークスピアの作品、源氏物語という作品、ゲーテの作品、夏目漱石や三島由紀夫の作品が、そうだと言えます。つまり、歌人や漢詩人やソネットなどの詩人であり、小説家でもあった人物の作品です。その次が、社会や人間の本質を、様々に実行して、体験の中から悟った人物の小説です。日本では、無学歴に近い形で、色々な職業や職場を経験した、長谷川伸や吉川英治、浅田次郎、松本清張などがあります。シェークスピアは、実に、この要素をも合わせ持ったのです。
最後に。私の「ものがたり」の創作は、まだまだ始まったばかりです。もっともっと研究し、もっともっと深め、もっともっと広がり、もっともっと本格的に書きたい。私にとって、「ものがたり」の面白さは、泉鏡花が一番で、「ものがたり」のおかしさは、筒井康隆が一番です。筒井康隆さん、江戸川乱歩に見出された後、各方面からボロクソに言われながらも、ボロクソに言い返し、よくぞ「ナンセンスSF」、「ナンセンスギャグSF」を、社会に確立して下さった。筒井作品を見ると、「小説とは、何でもありだ」と勇気付けられます。
また、戯曲では、なんと言っても井上ひさしが一番です。普通の戯曲家は、十年でピークが過ぎますが、井上ひさしさんは、三十五年以上ピークが続いています。それだけ、恐るべき勉強をしておられるのです。また、ショートショートは阿刀田高さんが一番で、人間性のすばらしさが滲み出る、すがすがしい文体が好きです。その意味で、最近の芥川賞作家では、川上弘美さんが、文体の調べや気の良さ、「ものがたり」の面白さは群を抜いてます。だから、大好きです。
また、最近の直木賞作家では、多くの体験から滲み出る、温かい文体と心憎い描写力、競馬好きの愉快な性質。そして、読後感が気持ちのいい浅田次郎が好きです。スケールが小さいとか、内容が浅いと言われますが、全く気になりません。どの作品も、皆に愛されるでしょう。
それでも、そのスケールと多様性、その詩心と文体、そして、優れた頭脳と天才性は、三島由紀夫の右に出る人はいません。ああ、なんで、あんなに早く死んでしまったんだ。あの死に至る理由は、良くわかるけど、日本文学の宝だったのに。特に、あのメチャメチャ面白いエッセー、緻密な評論を、もっと読ませて欲しかったのに……。
しかし、よしもとばなな 、 村上春樹、中上健次、開高健、安部公房、みんないい作品書くなあ。どの作家も、みんな偉い。「ものがたり」の魅力に取り憑かれた私ですが、優れた作品を生み続ける作家は、ジャンルを越えて本当に偉い。尊敬できます。自分が作り始めて、文学の味わいが豊かになるとともに、そのことを、つくづく実感する今日この頃です。
戸渡阿見(半田晴久(深見東州))